昭和四十八年八月二十五日 朝の御理解
御理解第六十五節
「日柄方位は見るにおよばぬ。普請作事は、使い勝手のよいのが、よい家相じゃ。よい日柄というは、空に雲のない、ほんぞらぬくい、自分に都合のよい日が、よい日柄じゃ。いかに暦を見て天赦日じゃと云うても、雨風が強うては、今日は不祥のお天気じゃと云うではないか。日のお照らしなさる日に良い悪いはないと思え。」
実に胸のすくような御理解ですね、それが、教祖様はあぁ教えておられるけれど、というものが残るとするならば、あなたは教祖様の信心を頂いていないという事になるです、知らない時ならいざ知らず、お道の信心を判からしてもらい、教祖様の信心を判らせて頂いたら、教祖様の云うて下さる事を、教えて下さる事を信ずる事だと思うです。
そう云う事は知らなかった、やっぱり日柄方位は見ねばいけんと思うとった、やっぱり普請でもするなら、家相でも見てもらはにゃと思いよった、ところが、日柄方位は見るにおよばんとこう云われる、それこそ、心の中につかえておったのが一辺にすっとする様な、素晴らしい御理解だと思うですね。
これはね、日柄とか方位とか云う事じゃないです、そう云う事丈じゃない、一切がそうです、お互いが、様々な悩み、または、難儀を持っておりますけれども、教祖様の教えて下さる事を、信ずる事が出来る様になった。
いくら信じておっても、毎日苦労はあるんですよ、いくら信じておってもやっぱり悩みはあるんですよ、けれどもひとたび、教祖の御教えを受けたら、もうそれこそつかえておったものがすきっと下がる様に、おかげを頂くんです、教祖様の御教え。
私は、毎日ここでお取次ぎをさして頂いて良い体験をさして頂く、もうここにお参りさせて頂く間は、心が暗うなって、また同じ事を親先生にお届けせんならんと思うて来るけれども、一言の御理解を頂いただけで、心がすーっとする。
それは、皆が教祖様の教えを信じて来たからです、まあそれを身近に云うならば、親先生の云われる事を信じれる様になってから、成る程、親先生の云われる通りにしとけば、おかげになるという信心を把握しておるからです。
だから、そう云うところまでは親先生を信じておるのだけれども、やはり毎日、難儀を感じて居る、それが人間なんです、なぜかと云うと新しい事柄、事情が変わって来るから、同じという事は決してない、もう何十年信心しよっても、あんた、まだ判らんのとは言い切れない、だから、けれども、親先生を信じておる事だけは間違いない。
昨日、ある方が、家庭的な悩みを訴える、本当に困るねと云う様な難儀です、けどその人が大体、体が弱いんです、それで、私が申しました、そればって〇〇さん、弱い体を強うして頂く為の修行と思うたら、それは、おかげばいと私が申しましたら、丁度憑ものが取れた様に、そげな頂き方があった、いやそれはもうどれくらい、頂いて来たか判らない、けどもその難儀なところだけを見ておるものですから、まあ信心しよつてこげな難儀が、こげな事では、親先生にお届けも出来んけれどもと、云う様に悩んで来ておるのです、けれどもこれは、その方が如何に私を信じて過去において、親先生委せになれば、おかげは頂けるれるという確信を持っておるからです。
金光大神を信ずる、親先生を信じておるからなのです、なら、信じておっても、金光大神を信じておってもです、やはり、日々の問題が変わって来るのですから、だから、日頃習っとけば、それは、応用問題じゃけんすぐ判るよと云うけれども実祭は判っていない。
やっぱり胸がつまるように、胸が暗くなってくる、其処で同じ様な事を又お願いしますけれども、実は家庭がこうこうで実は難渋いたしておりますと、本当にくーっとする様な、成る程、問題が起きておるのです、けれどもね、あんたが健康にならせて頂くための修行と思うたら、何も云う事もいらん、語る事もいらん、その難儀を見て、あぁこれが私が健康になるおかげと思うたら、胸がすーっとするじゃないですか、胸がすーっとするその事がね、もうあなたが健康のおかげを頂くだけじゃない、その問題までも、解決するのじゃからねと云う訳なんです、もうそう云う、云うならば、その方はもう二十何年の信心ですから。もう過去に於いては、そのおかげを頂いて来ているんです、実際は。
けど、問題は事新しくなって参りますとね、やっぱり暗い心になっておる、やはり難儀は難儀として感じておる、皆さんそう云う例が沢山あるでしょう、だから、私六十五節、勿論金光様の信心を頂いておってです、日柄方位を例えば、ここに朝参りをしておるほどしの方ならばです、日柄方位ども見る方はありますまい、普請作事は、使い勝手の良いのが、良い家相じゃと。良い日柄と云うのは、空に雲の無い、ほんぞら温いのが自分に都合の良い、もう。自由闊達、金光様の信心はここが有り難い、ここから抜けさせて頂けた、いわゆる、自由な天地にあるものは只有り難いものしかないんだと、判らせて頂くところまでが金光様の御信者、だから、皆さんもう判っておられるのだ。
だからこの六十五節は、如何に教祖様のお言葉を如何に信じておるかと云う事になるのです、信じたら、この御理解を拝誦させて頂いてもう本当に胸のすく様な御理解です。
今まで、例えば、日柄があるだろう、方位があるだろう、家相の人相の、もう様々な問題の中で、窮屈な思いをしておったものが、教祖様のこのみ教えに触れた時に、それこそ、自由闊達な天地の中のご恩恵に、お恵みの中にある私たちであるという、いつもが天赦日であり、いつもが神様に許された、私であると云う様な、おかげを頂かしてもらえる御理解。
これは、だから、普請作事そんな事だけじゃない、だから、それほどしの信心であり、教祖のそれほどしの言葉の威力というか、力というものを、信じておるのだけれども、けれども起きて来る事は、毎日違うんだという事なのです、それが人間です。
場合には、親先生はこう云いなさると判っとるばってん、難儀しとる人があるです、お届けすれば親先生はこう云いなさるじゃろう、それでも先ず、お届けをさして頂くと、やはり、自分が思うとる様な事を云われるけれども、不思議な事だなあ、お取次ぎを頂いて、親先生の一言がです、それこそ胸がつかえておる時に、胃散でも飲んだ様にすきっとする、そのすきっとする心がね、体の上にもすきっとした、根切れのおかげを頂く事であり、すきっとした、おかげの道が又開けて来るのである。
昨日私が取次がして頂いたその方の場合でも、あんたが健康にならして頂く為の修行ばいと、親先生本当にそうでしたと、すきっとする時には、あなたの病気もすきっとしたおかげになっているだろう、この生き方で行ったら、だけではない、今、あんたが難儀を感じておる、その問題も、すきっとしたおかげの道がついて来るのだ、それが信心のおかげなんだ。
昨日もあるお取次ぎさせて頂いた、わざわざ、昨日私、ちょっと合楽音頭の吹き込みを昨日やりよった、そりけ、私が、お広前に出て来なかった、けど私にぜひ、その会いたいと云うので、知らなかったものですから、何時間て待って、私が済んだ後えやって見えた、お話を聞かせて頂くと、本当に難儀な問題なんです。
もう本当に私という者が、本当に如何に業の深い私かと判ると、もう本当にこの業が取れると、どんな修行しても、良いと思いますとこう云う。
話を聞いておって本当にたまげるごたる事です、私共から、想像もつかない様な事だけれども、それがその人の性格なんだ、持って生まれた性格の中にそれがある、それで、信心させて頂くほど、それが苦しうなって来る。
又も失敗をした、だから苦しい、私が思いました、例えば、私がごと、マンマンシャンのごたる人間ならばね、そげな、悩みは無かかも知れん、けれどもね、私には、私の悩みがあるのだと、けれども、私は、私にしか無い悩みを持っておるおかげで、信心が出来ますと、お礼申させて頂いておるが、もうこんなごと、こげな物はとって除けにゃと思いよった、それを、大切に大切にせねば居られない様なものが、この頃は感じるよと、云いよったら、もう、涙をぽろぽろ流して、親先生、これで許されるだろうかと云う訳なんです、こんな根性許されるだろうか、まあそれは許されないかも知れない、けど、根性の穢い根性のおかげで信心が出来よるとじゃろうもん、信心が出来よるとじゃろうもん、だから、お礼ば申し上げねばならない、もうそれっきり、何かこ憑ものが取れた様に、明るい表現、表情で帰らせて頂いた。
なら、そんなにすきっとしたから、又、ほっと、それかと云うと、又、その問題に直面した時、又その人は悩むでしょう、けどその時には、又、新たな御理解を受けて、これが、すきっとして行く事、そこに信心の成長がある。
その実、内容にある、穢いもの、自分ながら辟易とする様なもの、成る程それはいけない事でしょうから、成る程それは困ったなと思うけれど、それの、そのおかげで、修行が出来ておろうが、例えて云うとね、あんたのその心は、実に賎しい心なんだ、けれど、ここで馬のお知らせを頂くと、馬馬と云うて、馬を二匹頂くと、馬馬という事になるから、まあ賎しい事だと云うけれども、その賎しいものがあるから、そのうまうまがあるから、普通では行けないところを普通ではとても歩いては行けそうにないところを、馬に乗って通るから、人一倍の修行も出来るんだと、云う話をさして頂いた。
その賎しいその心がね、それは、許されないかも知れない、だから、そこは詫びて行くがいい、神様が下さった性根だもの、いくら悪いというても、その為に自分が難儀しとる、いや自分が難儀しとるだけでなくって、周囲にまで、難儀を及ぼしとるのだ、けれども信心さして頂く様になって、こういう穢い根性をと、判らして頂いたら、それの為なら、あんたどげな修行でもすると云いよろうが、とても普通じゃ出来る事じゃないよ、それこそ、険祖な道を辿らなければならん、只、歩いてからではとても、とても、歩いて行けそうにないところを、賎しいと思っておる、其処を馬に乗っていわば、走り抜けるというおかげが受けられる。
人が通りきらんところを通り抜けさして頂ける修行が出来る、そこんところは、お礼申さねば、私も、そこんところをお礼申さして貰いよる、そこにすきっとした心、そのすきっとした心に、おかげが頂ける。
六十五節と頂いて、お互いのそれこそ、胸がすく様な、きりっとした御理解ですから、御理解を受けて、私共の心がスキッとする、悔んでおった、悩んでおったその事に対して、むしろお礼を申し上げる様な心にならして頂く事を判らせて貰うたら、胸がすっとする、いわゆる、心が許されるのだ。
先日からも、申しました様に、自分の心の呵責というか、良心的な呵責に、苦しみ抜いておるという事は、おかげにゃならん、それは丁度、閻魔様の前で、裁きを受けておる様なもの、けれどもその事自体を、神様にお礼申し上げるべきだったと気づいた時には、これはもう、極楽行きという事になった、心がひっかからん、天赦日、神様に許された心なのです、そこから又自由なおかげが頂けるというのです。
お互いが様々な悩みを持っております、苦しみもあります、けども、根本的な事は、例えば今、お取次ぎをさして頂いた、その婦人の様にです、その人が病気を持っておる、その上に家庭的にこういう悩みがある、それが、見る事につけ、聞くにつけ、どうした難儀な事だろうかと思う。
苦しいから、お取次ぎ頂いたら、それをね云うならば、自分を健康にならせて頂く事の為の修行に、として見る事になったら、聞く事になったら、それも又有り難い、これで私の病根が1つ取り払われよるんだと思うたら心がすきっとする、だから、体も健康のすきっとしたおかげになる。
その問題もすきっとしたおかげを頂いて、さあおかげを頂いても、又、次に問題があるでしょう、又難儀があるでしょう、これを取次ぎの働きによって、お取次ぎを頂いて、一段一段信心を進めて行くところのおかげを頂くのであります。
もう、どうなったら悩みはなくなろうなんて、私はないと思う、私共の悩みも、例えば、私の悩みを皆さんに聞いて頂いたら、親先生そげな事悩みなさらんでんよかろうと云うかも知れない、けれども、私にとっては深刻な悩みなんだ、程度が違う、人間の悩みと、神様の悩みは、程度が違う、同じ悩みでも、人間の悩みと、神様の悩みとは、程度が違う、神様の心配の内容は、内容が違う、と云う様に神に向かって進んでおる私共の心の中に起きて来る、その心配の内容というものは、次第次第に高度なものになって来なければいけん、だから一生が修行だ、それこそ神様が気を使いなさる、神様が心配なさるであろう様な。
これも、昨日の、夕べの事なのですけど、今日のマル少の集いの事をお願いさせて貰いよった、昨日、久富先生が、帰りがけに、親先生私もやっぱり浴衣を持って来にゃいかんでしょうかと云う、この人はもう、浴衣どん着て、踊りを踊るという事はまるで、絶対出来ない方なんです。
皆さんご承知の通り、もう七十幾つにもなって、とてもとても、だから、持って来るだけ持ってきなさい、と云う訳でありますから、皆もやっぱりそう云う人が沢山あろうとこう思うのです。
けれどもこれが、教会全体の一つの働きとして、教会の働きとしての、事ですから、やはり、それに便乗するという事が、おかげを受ける事だという事は、みなわかる、その事を私は、夕べ遅う出て来まして、12時ちょっと過ぎでした、その事を、久富先生が仰有った事が、えらい気に残ったものですから、お願いさして貰いよったらね、人間優先という事を頂いた、人間が優先する、人間が先になる。
普通は神様優先でしょう、ここの場合、頂くと、神様が先ず先だ、神様が先ず先頭なんだ、もう神様の事から、人間の事だ、それがここの行き方なんである。
それが昨日は、人間優先と頂いた、例えば今夜の集いなんかは、人間優先である、教祖様の御信心にそう云うところは、どこがあるかと云うと、例えば、裸足の行をなさる時に、村中の者がいろいろ、とやこう噂をする、それを奥様が気兼ねをされる、そう云う風な事を教祖様に申し上げたら。まあ、信心のない者から云うたら、それもそうじゃろう、けれども足が悪くて、自分は、草履が履かれんのだ、修行で履きよらんと云うと、皆が又、信心気違いと云うから、そう云う風に云っておけ、そして、明日からは、作っておるわらじは沢山ある、不精で作らんのじゃないから、牛を引いて行く時には、牛の鞍に掛けて行け、鍬を担いで行く時には、鍬の先にひっかけて行け、私とあんたと行く時には、後からお前がそのわらじを持って来てくれと云われた、これなんかは、人間優先です。
だからそう云う場合もあるのです、人間の世界ですから、そこんところを信心のないものは、そげん事を云う、信心のないものがそんな事云うたっちゃ判らん、という意味じゃなくてです、それは、それなりに人間優先をなさっておる、そして、自分の修行の上には、一分だって後退りはしてござらん、それは本当に踊ったり、はねたり、歌どん歌ったりと云った様な事がです、けれども、自分の心の中に神様を離さなかったから良いじゃないか。
今日は一つ人間優先で行こう、一つ馬鹿にもなろう、阿呆にもなろう、踊った事のない踊りもいっちょ踊ってみろうか、けれどもそれが合楽で思い立たれておる行事に参加する事であるならば、それを自分の人情とか、いわゆる人間優先、これは、場合には、そう云うおかげを頂かして貰わねばならん、そう云う風に頂きますとね、例えば久富先生も、浴衣を持って来るだけ持って来なさい、と云う事で、腹が決まった、すきっとされただろうと思う様にです、私共の心がやはり、お伺いをする、お取次ぎを頂くお伺いもせず、お取次ぎもせずに、自分はそんな事には参加しないなんと云った様なね、生き方では、いつまでも、それが合楽と一緒になれない、合楽の信心を頂きたいと云うならばです、合楽の良かとこも、悪かとこも、いうなら、私の良かとこも、悪かとこも一辺は頂いてしもて、後で人間優先、ここだけは、取り除かんならんところは、取り除いたらよいじゃないか、良かとこだけ、ちょこっとら貰うたって、貰える筈は絶体ない、良いところも、悪いところも1辺ね、1辺頂いて、そして、消化の悪いところは、取り除いて行くと云う、生き方をさして貰う、でないとね、信心がいつまでもすきっとしないのです。
今日は教祖の御教えを、教祖を信ずるという事を、教祖の教えて下さる事を、あぁそうだと、すきっとする心を頂くという事を、今日六十五節を聞いて頂いた、親先生が云われる事によって、この様にすきっとするのだという人は、親先生を如何に信じておるかという事を、物語る事だと思うのです。
まずは教祖様の教えを判らして貰う、信じさせて貰う、親先生の云われる事をです、成る程、親先生委せになっとれば、おかげになるという事実をです、体験の上に積んで行っとるならば、これからとても、委せ切ろうと云うところからしか、すきっとしたものが生まれて来ないという事ですよね。 どうぞ。